岡山商工会議所のあゆみ

わが国最初の商工会議所である「東京商法会議所」の設立は明治11(1878)年3月。商工会議所の歴史は139年にもなります。

当時は近代的な産業や通商貿易の勃興期にあたり、不平等条約の改正その他重要問題が山積していましたが、政府は民間経済界の世論や実情を把握できていませんでした。

条約改正に当たって伊藤博文らが、条約改正は国民の世論である旨を英国公使パークスに述べたところ、「日本には多数の集合協議する仕組がないではないか、個々めいめいの違った申し出は世論ではない」と反論されたという裏話も残っています。

このようなこともあって、政府は民間経済界の意見を集約するための商工会議所制度の必要性を認め、「商法会議所」の設置を全国的に勧奨しました。その結果、実業家・渋沢栄一らの尽力によって、明治11年に東京、大阪、神戸で設立され、その後主要な産業都市に相次いで設立されました。岡山商工会議所は、「岡山県商法会議所」として明治12(1879)年12月、中四国初、全国でも9番目の商工会議所としていち早く設立されました。

それ以後、名称・組織の変更など様々な変遷がありましたが、戦後の昭和29(1954)年に現行「商工会議所法」に基づき特殊法人として改編され、今日に至っています。

現在(平成27年3月時点)、全国で515商工会議所がそれぞれの地域で活動しており、会員数は125万を数えています。



 

 

渋沢 栄一shibusawa

天保11[1840]年~昭和6[1931]年(91歳)

(写真=渋沢史料館蔵)

「国家の基礎は商工業にある。商人賢なれば国家は繁栄する」

武蔵国(今の埼玉県深谷市)生まれ。家業は農作、藍玉の製造・販売など。父や従兄の尾高慢忠から学問の手解きを受け、24歳の時、一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)に仕えることになりました。一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。

慶応3年(1867)、27歳の時渡欧。パリ万博を視察するなど、約1年をかけて西欧先進諸国を歴訪し、経済制度や近代的技術を見聞したことが、後の大実業家・渋沢栄一を生むことになりました。

明治維新となり欧州から帰国し、明治政府に出仕、民部、大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。

明治6年(1873)、33歳で大蔵省退官後、栄一は日本最初の銀行「第一国立銀行」の頭取をスタートとして、民間経済人として活動しました。日本経済の近代化や民間経済人の地位向上を実現するには個人のカでは限界があると考えた栄一は、人的ネットワークの形成のため、明治11年(1878)、38歳の時東京商法会議所を創立、初代会頭に就任するなど実業界で指導的役割を果たしました。生涯に約500もの企業の創設・育成に関わりましたが、その行動原理は公益の追求という観点に基づくものであり、決して私利私欲を追求することはありませんでした。

参考文献:童門冬ニ著『渋沢栄一 男の選択』(経済界 1995年)

渋沢研究会編『公益の追及者 渋沢栄一』(山川出版社 1999年〕

『大いなる気概とチャレンジの道』(東京商工会議所 1996年〕